南紀白浜辺りの歴史と文化

和歌山県域の歴史的なことで、地域と文化のすばらしさを、よくあわらしているのは文化財です。
高野・熊野が世界遺産に登録されたことは有名でありますが、文化財の数をみると、国宝の数は全国第6位、国の重要文化財に指定されているのは第7位です。
政治の中心地であった奈良・京都などを除くと、和歌山県が全国の中でも群を抜いて多くの文化財を持っていることがよくわかります。

南紀白浜辺りの代表的なものでは、世界遺産「熊野古道」、公益財団法人 「南方熊楠記念館」、国指定文化財(史跡名勝天然記念物)「安宅氏城館跡」「闘雞神社」〜源平合戦の運命が託された鶏〜があります。

熊野古道の歴史は平安時代まで遡るほど古く、千年分の足音がきこえる道。 現在の私たちも古の時代の人と同じように通ることができる世界遺産「熊野古道」

熊野古道
熊野古道
熊野本宮大社
MAP

ここから本宮大社前まで車で約90分。千年の歴史を持つ熊野古道は、道中では樹齢800年を超す大樹などの自然はもちろん、江戸時代に敷かれた石畳などの史跡を見られるのが醍醐味です。歩くごとに熊野古道の深みに魅了され、 熊野三山へとつながる参詣道として多くの人々が歩いた世界遺産。 古の時代より祈りを抱きながら歩いた道は、熊野三山に加え、高野山、吉野大峰といった三カ所の霊場などを含めて「紀伊山地の霊場と参詣道」という名称でユネスコ世界遺産に登録されています。
道自体が世界遺産に登録されていることは世界的に珍しく、その魅力は日本国内だけでなく世界中からも旅行客が訪れるほど。 近年パワースポットとしても人気です。

公益財団法人 南方熊楠記念館

熊楠記念館
MAP

南方熊楠は、和歌山県が生んだ博物学の巨星。東京大学予備門中退後、19歳から約14年間、アメリカ、イギリスなどへ海外遊学。さまざまな言語の文献を使いこなし、国内外で多くの論文を発表した。研究の対象は、粘菌をはじめとした生物学、 動物とも植物ともつかない不思議な生物。熊楠はこのミクロの小宇宙を感じさせる粘菌にのめり込み、和歌山の原生林に分け入っては粘菌を収集する生活に明け暮れていました。 動植物や鉱物にも興味があった熊楠は、貝、昆虫、カエルの干物にサメの顎など、ありとあらゆるものを収集していました。 また民俗学や精神世界にも造詣が深く、女性の陰毛や性風俗まで研究対象とするなど、気になったものは何でもとことん調べないと気の済まない性格で多方面にわたり、生涯、在野の学者に徹し、地域の自然保護にも力を注いだエコロジストの先駆けとしても注目されている。

近くには番所山公園があります

展望台からの眺望

標高32.5mの番所山一帯は、田辺湾の南端に位置し、円月島や塔島を望む風光明媚な自然公園です。
その昔、寛永20年(1643年)、この地に遠見番所が置かれ異国船の監視に当たったことから「番所山」と呼ばれるようになりました。
古くは植物園・動物園・遊園地がありにぎわっていました。今はなくなりましたが、展望台・遊歩道・芝生広場が整備され、自然と親しみ素晴らしい景観が楽しめる公園になっています。

上から見た番所山公園の先端
怪しげな「天空の城ラピュタ」のようなトンネルがを抜けると・・・海、第二展望広場
第二展望広場
第三展望広場の展望台 展望台の上に見える鐘が恋人の鐘です
番所鼻灯台

安宅氏城館跡

国指定文化財(史跡名勝天然記念物)

所在地:和歌山県西牟婁郡白浜町

列島の東西を結ぶ海上交通の結節点である紀伊(きい)半島南部を本拠とする水軍領主、安宅氏の城館。
豊富な史料と良好な状態で保存されている城館群は、鎌倉時代から戦国時代の水軍領主の活動や領域支配の実態と紀伊半島の政治情勢を知ることができる希有な事例。

・日本列島の東西を結ぶ海上交通の結節点である紀伊半島を本拠とする
 水軍領主(熊野水軍)、安宅氏の城館群。
・戦国期では隣接する勢力との抗争の中で戦略的に城館を築城している
 状況が確認でき、中世の熊野水軍の領域支配の様相の一端を示す。
・城跡は卓越した規模かつ良好に遺存しており、それらが水運、熊野参詣
 道(大辺路)を介して相互に関連している様相がうかがえる。
→中世における熊野水軍の存在形態を示す城館跡として貴重。

安宅氏城館跡 (上流側より)
安宅氏居館跡・八幡山城跡
八幡山城跡上空から日置川河口を望む
曲輪II 虎口(八幡山城跡発掘調査)
要害山城跡上空から富田平野を望む
要害山城跡 畝状空堀群(横堀と竪堀の組み合わせ)
安宅八幡山城跡

日置川の下流域を拠点に、周辺の勢力とともに熊野水軍の中核をなしたのが安宅(あたぎ)氏。周辺には安宅氏の館跡や山城跡が残りますが、なかでも八幡山城は本城の詰め城として、同氏の氏神・八幡神社の裏山に築かれていました。麓から山頂までは歩いて15分ほど。道中、石積みや土塁のほかお堀の遺構を見ることができます。

  • 住所:西牟婁郡白浜町矢田
  • 電話番号:0739-43-6588(白浜町観光課)
  • 営業時間:散策自由
  • 定休日:散策自由
  • 料金:散策自由
  • 駐車場台数:なし
  • 地図
海上から望む日置川河口
宝勝寺 安宅氏関連石造物群

安宅八幡山城跡の北に位置。永禄年間(1558〜1569)創建としていますが、それ以前の記録は不明です。墓地一角に、安宅氏の宝篋印塔(ほうきょういんとう)を見ることができ、古いものは安土桃山時代の頃と推定され、富田石や本官産出のものと思われる石材を使用しています。

  • 住所:西牟婁郡白浜町矢田423
  • 電話番号:0739-52-3452
  • 営業時間:境内自由
  • 定休日:境内自由
  • 料金:境内自由
  • 駐車場台数:なし
  • 地図
凡例

闘雞神社〜源平合戦の運命が託された鶏〜

※鬪雞神社は、2016年10月に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加登録されました。

日本の歴史上、非常に有名な戦である「源平合戦」。12世紀後半、絶大な権力を握る平氏に対し、源頼朝ら源氏が一斉に挙兵。最後は壇ノ浦での平氏滅亡で幕を閉じますが、実は勝敗に多大な影響を与えたできごとが田辺市の闘鷄神社で行われていたのです。当時、この地域で一大勢力を誇っていた熊野水軍。
トップに立つ熊野別当・湛増(たんぞう)は平氏方と知られていましたが、子の武蔵坊弁慶の要請もあり源平どちらに加勢すべきかを迷っていたといいます。そこで田辺の宮の神前で紅鶏(平氏の旗色)と白鶏(源氏の旗色)を闘わせ、神意を占うこに。
結果は7回とも白鶏の一方的な勝利となり、彼は水軍に対して源氏方への加勢を呼びかけることにしました。壇ノ浦では、現れた熊野水軍の船団を見て、両軍が「敵か味方か」と固唾を呑んでいたところ、船上に仁王立ちした湛増は「神威を奉じて源氏の軍に馳せ参じ申しました」と宣言。源氏からは大歓声が起こり、これが合戦に終止符を打つ要因の一つになったといわれています。一帯には闘雞神社以外にも、熊野水軍に関するスポットが多数現存。時代の趨勢まで左右させた熊野水軍の威勢の面影を、ぜひその身で感じ取ってください。

村の南にある。境内は山に寄る。社殿は壮麗で近郷の大社である。田辺城下の総産土神とする。社伝によると、熊野別当湛快のとき(湛快は藤原実方朝臣の裔熊野別当泰救のひ孫という)三所権現をこの地に勧請して新熊野と称する。この地はその頃三山の領地であったので勧請したのであろう。

闘雞神社
社殿は6棟。向かって左から西御殿、本殿、上御殿、中御殿、下御殿、八百萬殿。拝殿は本殿の前にあります。
境内には湛増と弁慶の銅像があり、二人の前では二羽の鶏が闘っています。

住所:和歌山県田辺市東陽1-1
電話:0739-22-0155
最寄り駅:紀伊田辺駅[出口]から徒歩約6分
営業時間:通年 8:00~16:00
定休日:年中無休
地図

熊野水軍が船を隠していたといわれる白浜町の三段壁洞窟。中には牟婁大弁財天が祀られています
熊野水軍のおはなし
源平合戦」で源氏に加勢した熊野水軍

史実で有名な「源平合戦」。その歴史ロマンの一片を三段壁で感じることができます。源氏と平家が激しい戦いを繰り広げていたころ、熊野水軍は、熊野別当湛増(武蔵坊弁慶の父)に率いられて源平合戦に参戦し、源氏の大勝利に多大な貢献をしたと言われています。

熊野水軍は田辺市の扇ヶ浜から壇ノ浦に出陣しました
安宅氏ゆかりの地に佇む宝勝寺

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Posted by lancelotjp